初恋をこじらせた結果、愛の差、年の差、人はいつだって迷うのです
「良かったね」
「チケット、取れたの運が良かったよ」
「今度、テレビに出るんだってね」
「出待ち、しない」
歩いていると若い男女の会話が聞こえてきた。
この近辺には公共の施設、広場などがあり、ミュージシャンや芸人が大道芸のように昼間、夕方、時間を問わずに歌や芸を披露している。
昼は過ぎているが、空腹を感じて入った食堂は人が多かった。
局で出された弁当、近くの喫茶店でも良かったか、そんなことを思ったが、今更、引き返す気にはなれなかった。
中に入ると相席でもいいですかと聞かれて思わず頷いてしまった。
壁際のテーブル、向かいの席に座っていたのは女性だ。
凝視したわけではないのだが、視線に気づいたのか、顔をあげ、相手はにっこりと笑った。
「美味しいですよ、鯖味噌定食」
そんなことを言われるとは思わなかったのか、一瞬、あっけにとられてしまった。
だからかもしれない、店員が来てご注文はと聞かれたとき、思わず答えてしまった。
そういえば鯖味噌を食べるのは久しぶりだと思い出した、学生の頃はよく食べていたのだ。
社会人になってからは定食屋に入ることも少なくなり。
海外へ仕事に行く事が増えたせいもあるのだろう。
たが、一時、それで体調を壊してしまった。
それなりに年をとってくると、食事も変わってくる。
医者から、できるなら和食をメインに食生活を変えたほうがいいですよと言われたことを思い出した。
わかっていても、仕事が忙しいとなかなか変えられない。
それが原因で別れた妻とは何度か喧嘩もした。
これから先、結婚の予定もない、一人なのだから体には気をつけないといけないと思ったとき、店内のテレビから流れてくる若い女性の歌声に気づいた。
アイドルの里奈、最近、グループで歌い始めたらしいが、人気はどうなのだろうかと思ってしまう。
街中でスカウトされてアイドルに、デビュー当初はかわいらしい容姿だったが、今では背も伸びて顔立ちも変わってきた。
そういえば一ヶ月ほど前に会ったとき、ドラマにでるかもしれないと言ってたな。
そんな事を男は思い出した。
多分、ばれてないよねと思いながらもつい周りを見回してしまう。
デビュー当時は。
「あれ、里奈じゃない」
そんな声に思わず振り返り、慌ててた足早に、その場を逃げるように去ったこともあった。
だが、デビューしてしばらくすると、そんな声を聞くこともなくなってしまった。
自分の変装がうまくなったのか、それともわかっていて知らないふりをしているのか、アイドル、芸能人なんて興味がないのか。
良いことだと思いながらも、もしかして自分の人気はそれほどではないのかと思ってしまう。
歌手、役者という枠にとらわれずに色々な事をやりたいと思っても、なかなか思うようにいかない。
親が有名、芸能人ならツテやコネを使って色々なことができるかもしれないが、それだけはしたくなかった、
お父さん、たまには電話して声を聞かせてあげようかなと思ったのが、今はそんなこともあまりない。
というのも連絡をしても父親は忙しく、日本にいないと思ったら海外、テレビの仕事でなかなか連絡がつかないのだ。
池神征二、社会、政治などのコメンテーターとしして活躍している芸能人がLIMAの父親だが、それは世間には公表していない。
理由は離婚と仕事が忙しくなってきたからというが、それは表向きだと思っている。
というのも一時、芸能人の子供を狙った事件があったからだ。
随分と昔の事だが、海外の仕事が増えてきたとき、離婚を言い出したのは母親だ。
たまに父親と会い、食事の約束をしても途中で仕事があるからとか、いきなり電話がかかってきたこともある。
自分も芸能界で仕事をしている、もし一緒にいるところを見られて何か噂を立てられたらと思ってしまう。
昨今は芸能界の恋愛事情も昔に比べて変わってきた。
今はネットで色々な事が拡散される、真実、デマなど関係なくだ。
それで芸能界を辞めていったアイドルもいるし、グループ解散ということも決して少なくない。
「なあ、あんた、里奈じゃないか」
突然、声をかけられて振り返った彼女は困惑の表情になった。
中年の男性だが、にやにやと笑って近づいてくる。
以前ファンですと声をかけられたことがあったが、いきなり抱きつかれて騒ぎになったことがあった。
違いますと言って、その場から逃げようとしたが、男は突然、手を伸ばし、腕を掴もうとした。
「お、おとうっ、池神さん」
電話の向こうから聞こえてくる声に池神は驚いた。
お互いに何か特別な事、用がない限りは電話はなるべく控えようと約束していたのだ。
食堂から出ると、自分のスマホが突然、着信をたてたことに池神は驚いた。
これからテレビ局に向かって仕事の段取りをと考えていただけに誰だろうと思ったのも不思議はなかった。
娘からだった。
「里奈、どうしたんだ」
「ファンだって男に絡まれて」
「大丈夫か」
「うん、でも、助けてくれようとした人が殴られて」
娘だけではない、助けてくれようとした人は大丈夫なのか、すぐに行くと答える自分に娘は大丈夫、後でまた連絡するから、それだけいうとぷつりと声は途切れた。
親子ということは世間には内緒にしていた、このことでばれても構わないと思っていた池神だが、そうはならなかった。
「運ばれた人、いなくなったの」
話を聞いて池神は驚いた、救急車で運ばれた女性は治療するといって別の病院に運ばれたらしいが、どこの病院なのか、教えてはくれなかったという。
事情があるようだが、昨今では個人情報の取り扱いが厳しくなっている、芸能人だからといって教えてくれるわけもない。
三年が過ぎた。
「里奈、今度ドラマに出るんでしょ、頑張って」
「観なくていいから」
母親の声にもう一度、繰り返す、観ないでと。
主役のライバル役、かも好きな人を取り合うという役柄ははじめてだ。
正直、自分にできるのかと最初は悩んだ。
だが、歌もそこそこ、特別うまいというわけではない、バラエティに出ても、コメントは時々、的外れなことを言ったりして笑われてしまう。
それが個性だなんていえれば良い、昔、ドラマに出たこともあったが、散々な評価だった、テレビ、芸能関係者は初めてにしてはと言ってくれた。
だが、一般視聴者の評価は厳しかった。
ネットの掲示板ではミスキャストだとか、散々こき落とされてしまった。
自分が芸能人の父親、池神征二の娘だと知ったら評価も変わるのだろう、だが、それだけは避けたかった。
「久しぶりだな、池神」
喫茶店ではない、チェーン店のバーガーショップで学生時代の友人と会うのも珍しいなと思ってしまった。
「なんで、ここなんだ」
「人間観察だよ、今度、写真集を撮らないかと言われてるんだ、それで、こういうところに出入りするんだろうなと思ってね」
辞めたんじゃなかったのかと言いかけた池神は目の前の男をじっと見た。
数年前にあったときと印象は変わらない。
肩口まで伸びた黒髪、前髪で目は隠れていて、顔色もだ。
そのせいか、どこか具合でも悪い、病気ではないかと思われても仕方ない格好だった。
だが、今日は違う。
「目つき、悪い、いや、怖いぞ、それで写真集って」
「ああ、里奈って二十歳ぐらいの子だったかな」
突然、出てきた名前に池神は驚いた、詳しく話を聞くと間違いはないらしい。
「娘、だ」
ぽつりと呟くと村沢武史は、えっと表情を強ばらせた。
「結婚していた、のか、いや、娘って」
「公表はしていない、妻が芸能人の父親だと周りから色眼鏡でみられるしと言われてね」
「親の七光りで仕事があるとか、まあ、イメージはよくないだろうな」
「一時、スポーツ選手や海外セレブの二世が問題を起こしたせいもあるんだと思うが」
池神の言葉に家族を持つと大変だと村沢は口元を緩めた。
「実は頼みがある、弁護士に知り合いとかいないか」
いきなり話が変わって池神は驚いた。
どういうことだと聞き返そうとして周りを見た。
時間帯のせいか、店内に客は殆どいない。
「娘、いや、女性を引き取りたいんだ、親族が」
穏やかじゃないなと思い、池神はコーヒーを頼んでくると席を立った。
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