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オリジナル、二次の小説 舞台、役者 すきなもの呟いて書きます

映画「苦い涙」結末は見えている男同士も、年の差と愛の比重

pixiv、映画コムにもUpしていますが、後になって色々と考えてしまい、少し加筆しています。


恋愛に限っていえば、どちらが良い悪いなんていえないんだけど、見終わった後、愛しすぎた方が負けなのかと思ってしまった。
そして現実が見えてない、分からないのか(おっさん)と言いたくなった。


映画監督のおっさんは元々、ゲイ、太っている熊さんみたいなタイプです。
人の良さそうな感じだけど、尋ねてきた女優に自分の恋愛が破綻したことを話す時、自分に酔って、いい人ぶっていない、なんだか、正当化していないかい。
フィフティフィフティというのが理想だけど、そうはいかないよねと思ってしまったわ。
彼女が連れてきた美青年に一目惚れ、会った瞬間に恋に堕ちていく過程が少女漫画みたいで思わず可愛いと思ってしまったけど、この時点でオヤジは負けているなと思ったわ。
青年を自分のモノにして行く過程は短いシーンだけど、これが彼にとっての蜜月だ。
甘い言葉で自分と一緒になればスターになれる成功は約束されたも一緒だなんて、いくら有名監督、プロデューサーでも普通の人間なら疑ってしまうだろう。
貧乏青年が頷かない筈がないよなーと思うけど、青年の返事も仕方もはっきりとはしないから、焦らせ方が美味いと思ってしまうのよ。


ホテルは金がかかるし、自分の家で一緒に住もうなんて、でもおっさんの下心を知っていてわざとじらしている青年は猫みたいな感じだ。


でも、一緒に暮らし始めて九ヶ月後には立場が一転、青年の方が優位になっている。
夜は街に出て他の男を相手にして帰ってこないこともある、でも、それをオヤジはとめることができない。
自分は、こんなにも愛しているのに青年は同じくらい見返りをくれない、愛してくれない。
でも、青年にしてみれば当たり前、誰と寝ようが束縛なんてされたくない、多分、これが青年の本質なのかもね。


彼を連れてきた女優が後半、おやじに青年と寝たのかと聞くと、彼は誰とでも寝るわと当たり前のように平然と言うのだ。
それを半分笑いながら言うからおっさんは苦しむのだが、仕方ないだろうと観ている側としては思うの。
青年にとってセックスは愛の証でもなんでもないのか、出会っていいなと思って寝る、挨拶みたいな感じだ。


監督のアパート、室内で話がどんどんと進んでいくんだけど、全てを見ているのが監督の秘書、この人の演技がずっと無言。
視線、立ち振る舞いで、自分は傍観者ですといわんばかりの態度が凄い。
タイトルの苦い涙、愛は人を殺すけど、誰も死なないという言葉通り、確かに死なない。
だが、残酷だ。
おっさんだって無名の時代はあって、有名になって恋をした、捨ててきた恋人もいるだろう、けど、それがいざ自分が捨てられる側になったら。
可哀想だけどパワーバランスの差、釣り合いがとれてないのが最初から分かってしまうのだ。
愛に狂って嫉妬でどうしようもないくらい苛立って、家族、娘や母に当たり散らして醜い、けど、これが代償だ。


最期になって青年がオッサンに電話をするシーンがある、誕生日おめでとう、今から逢いにいってもいい、でもここでおっさんは断るのだ、本当は逢いたいのに。
やせ我慢というか、かっこつけというか、見栄を張っているのか、どちらにしても素直になれないところで駄目だ、負けている。
青年が電話をしたのはおっさんの友人、女優に言われたからけど、彼女の優しさがなければ、青年は電話することさえしなかったと思うわ。


女優が青年に彼に優しくしてあげたと青年に聞くのは愛と優しさ、哀れみもあるのかと思ってしまったわ。
ひどい暴言を吐かれても女優、監督、積み上げてきたものがあるから付き合いを金輪際辞めるとか、顔も見たくないぐらい嫌なことがあっても、そこは時間、いや、なあなあとの部分もあるのかなと。


最期に一人になったおっさんは自分の秘書に対等な関係になろうと言って縋ろうとするけど唾を吐かれて出て行かれる、つまり一人になってしまった。
可哀想と思う反面、でも、この未来予測できなかったんだろうかと思ってしまうのよ。


この映画は「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」女性同士の戯曲だったようで、でも人気が出なくて映画化にあたりラストを変更して人気が出て、今回、男同士、ゲイに置き換えて」
「苦い涙」というタイトルに変更になったわけだけど。
主役は、でぶのおっさんだ、嫉妬に狂ってみっともなく泣いて八つ当たりして暴れる、そんなおっさんだが、可愛いと思ってしまうのね。