雑多な日々は徒然に

オリジナル、二次の小説 舞台、役者 好きなものを呟いて書きます

仮の結婚

木桜

自室で何日も不安と苛立ちに苛まれていた。盗み聞きしたあの日から、彼女と顔を合わせることはなかった。耳に残る少女の切迫した声と、自分の名前が出た瞬間の驚きが頭から離れない。  
 その日の夕方、彼女と鉢合わせた。  


 「久しぶりだな。」  
 短い言葉の後、彼女はよかったら、お茶でもどうですか?と言われ、彼は無言で頷いた。 胸の奥に溜まった不安と疑念が、その言葉で一瞬だけ和らいだ気がした。そして、彼女の部屋へと足を踏み入れた。  


 部屋のドアが開いた瞬間、驚いた、家具が整然と片付けられ、がらんとした冷たい空気が漂っていた。  
 「引っ越し、するのか?」    
 頷いた彼女の表情は、どこか罪悪感を隠そうとしているようにも見えた。  
 「見合いは断るつもりです、でも、叔母には会わずアパートを出ようと考えています」
 それで全てを終わりにしたいという彼女の言葉にエリックは驚いた。いや、やり場のない怒りにも似た感情が湧き上がった。  
 このとき、少女の言葉――「恋人のふりをしてもらえばいい」という提案が、頭をよぎった。  
 固く唇を結び、数秒の沈黙の後、低い声で言った。  
 「…結婚すればいい。」  
 「え?」  
 「協力する、そうすれば、見合いを断わることができるだろう、全てが丸く収まる。」  
 彼女は言葉を探すように目を泳がせた。そして、かすかな声で答えた。  
 「そんな…そんなこと、無理です。」  
 エリックは一歩前に踏み出し、真剣な目で彼女を見つめた。  
 「迷惑じゃない。協力すると言っているんだ。」  
 彼女は首を振った。その仕草には、自分が犠牲になれば全てが丸く収まるという諦めが滲んでいた。しかし、エリックはその表情を見て、さらに強く言葉を続けた。  
 「頼むから、任せてほしい。」  
 美佐緒は俯いたまま無言だ。
 「守りたいんだ。どんな形でもいい、助けになりたい。」  
 その一言に、彼女の中で何かが揺らいだようだった。だが、彼女は再び首を振った。  
 「そんなことを頼むわけにはいきません。」  
 「頼む…任せてくれ。」  
 まるで自分の声ではないようだ、だが、答えは出ている。彼女がどんなに否定しようとも、彼はその意志を曲げるつもりはなかった。  
 「君を助ける。それだけだ。」  
  部屋には静寂が訪れた。彼女が決断し答えを出す時間。彼はただ、その沈黙の中でどんな思いに辿り着くのかを見守るしかなかった。
 「誰かに頼るのは間違いだと思っているんだろう。」  
 彼の声は、低く震えながらも確信に満ちていた。自分の気持ちを言葉で完全に表すことなどできない。それでも、彼は伝え続けるしかなかった。  


 二人で叔母の家に向かう途中、言葉を交わすことはほとんどなかった。二人の間には、目的を共有しているはずなのに、どこかぎこちない沈黙が流れていた。エリックは歩きながら、美佐緒の横顔をちらりと見た。彼女の表情は固く、覚悟を決めたような静かな緊張感が漂っている。それが、エリックの胸をさらに締め付けた。


 
 叔母の家に入ると、室内はきらびやかな装飾品に囲まれ、贅沢さを誇示するような空気が漂っていた。叔母の振る舞いも、それに違わず傲慢さと余裕を兼ね備えている。彼女の目は笑顔を作りながらも冷たく、美佐緒を品定めするように見つめていた。


 美佐緒が深く息を吸い、口を開く。
 「叔母さん、今日来たのは、見合いを断るためです。」
 その言葉に、叔母は驚いた素振りを見せながらも、すぐに不快そうな表情を浮かべた。
 「どういうこと?あの見合いの話を断るって…理由は?」


 その瞬間、彼女はエリックに一瞬だけ視線を送る。自分を頼っている、その小さな合図に、エリックの胸はかすかに高鳴った。彼女の助けになれるのだと思うと、彼は自然と前に出た。
 「理由は簡単です。」
 エリックは低く、しかししっかりとした声で答えた。
 「私たちは結婚するからです。」
 その一言に、叔母の目が細まり、口角に嘲笑が浮かぶ。
 「結婚?あなたたちが?」
 彼女の目はエリックを見上から下まで舐めるように見た。まるで自分が状況の全てを把握していると言わんばかりだ。
 「証拠は?その話が本当だという証拠を見せなさい。」
 その言葉に、エリックは不意を突かれたように眉を寄せた。証拠とは何を指すのか?叔母の鋭い態度に、彼は内心苛立ちを覚えたが、それを表に出さないように努めた。美佐緒が反論するように口を開く。
 「結婚の話は以前から考えていました。ただ、お互いに忙しくて話を進める時間がなかったんです。」
 彼女の声には力が込められていて、普段の柔らかい物腰とは異なる決意が感じられた。だが、叔母の冷たい視線はその言葉を受け流すようだった。
 そのときだった。テーブルの下で、何か柔らかいものがエリックの手に触れた。それが彼女の手だと気づくのに数秒かかった。
 指先が、そっと彼の手を掴む。小さな震えが伝わってくる。彼女もまた不安を抱えている――その事実に、エリックの胸が一瞬熱くなった。
 怯んでどうする。彼女を守ると決めたはずだ。
 エリックは心の中で自分を叱咤し、美佐緒の手をしっかりと握り返した。そして、テーブルの上に視線を戻し、冷静な表情で口を開いた。
 「私たちは結婚します。」
 その言葉には、迷いは一切なかった。


 後日、二人は役所に向かい、結婚届けを提出した。その瞬間、エリックの胸には奇妙な感情が渦巻いていた。仮の夫婦――そう思っていたはずなのに、その行為は決して形式的なものではなかった。彼の中で、それはあまりにも大きな重みを伴っていたのだ。


 届け出の書類を役所の職員が受け取り、手続きが進んでいく間、エリックは心の中で問い続けた。これでいいのだろうか。 自分は彼女の助けになれているのか、それとも、彼自身の感情を押し付けているだけなのではないか。
 だが、彼が書類に最後のサインをし、職員から「おめでとうございます」と声をかけられたとき、不思議な感情が胸を満たした。それはほんの少しの幸福だった。
 美佐緒の隣に立ちながら、エリックはそっと彼女の横顔を見た。彼女は少し緊張した面持ちをしていたが、その目には微かな安堵が宿っていた。その姿を見て、エリックは自分がここに立っている意味をようやく理解し始めた気がした。
 彼は自分に言い聞かせた。
 これは仮の結婚だ。だから、期待をしてはいけない。
 だが、その一方で、彼の中にはごく小さな声が囁いていた。
 この瞬間だけでも、一緒にいられることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。
 胸には依然として葛藤が渦巻いていたが、それでも後悔していなかった。彼女を守るためにここにいる。それだけで十分だと思うことにした。
 それが仮初めのものであろうと、彼の心には確かに一瞬の温かさが灯っていた――それだけは紛れもない真実だった。