仮面の恋 オペラ座現代バージョン
その日、エリックはアパートの廊下を歩いていた。足音を静かに忍ばせるように進む。住人たちの声が薄い壁越しに漏れ聞こえてきても、いつものようにそれを気に留めることはなかった。だが、「桜川さん」という名前が耳に入った瞬間、彼の足は石のように固まった。
「見合いするんですって。」
桜川美佐緒(さくらがわ みさお)。彼がこのアパートに越して以来、たびたび親切にしてくれた女性は小説を書くのが好きで、バイト暮らしだ、彼女は、時折、自分をお茶に誘ってくれる。最初のうちは断っていたが、だが、同じアパートに住んでいるのだ、他人との関わりは極力避けるべぎてはと考えていた自分が、いつの間にか誘いの言葉をかけられることを心待ちにしているとに内心、驚いていた。
二度と恋愛をしないと誓った心の壁。それがある限り、彼女の存在は心地よい隣人以上のものになるはずがない、大丈夫だと、彼は自分に言い聞かせてきた。
それなのに。
「親戚から紹介されたみたいだよ」
彼女が見合い、まさか、驚きながらも、その場を立ち去ろうとするが足がいうことをきかない、この話に自分がひどく驚いていることに不安になった。
「でも70でしょう、年上といってもね」
「その親戚が、世話になったらしわね」
「つまり…」
聞いていられないと思った、部屋に戻り、落ち着け、冷静になれと自分に言い聞かせた。
年上、70歳、自分よりも年上じゃないか、そうだ、数日前、アパートに尋ねてきた親戚という女性の顔を思い出した、服装、身につけていた装飾は明らかに高額なものだったことを。
住人たちの声が遠くから聞こえるたびに胸に重苦しい何かが積み重なっていく。見合い――彼女が別の誰かと人生を共にするかもしれない未来。その現実が心を鋭く貫いていた。
どうしてこんなにも動揺するのか。彼は拳を強く握り締めた。彼女が自分に親切にしてくれたのは、ただの善意だ。特別な意味などない、わかっているはずなのに。
「…馬鹿げている。」
エリックは低く呟いた。
その日の夕暮れ、エリックはアパートの廊下を歩いている最中、彼女と鉢合わせた。「お茶でも」と誘われたエリックは近くの喫茶店へ向かった。
店内の落ち着いた雰囲気の中、いつものように話が弾むかと思われたが、その空気は妙にぎこちなく感じられた。エリックは、彼女がどこか落ち着かない様子でいることに気づいた。
「見合いをするのか?」
少し驚いたような顔を見せた彼女だが、すぐに頷いた。その仕草は彼女らしい控えめさだったが、何か重苦しいものが透けて見えた。
バッグから取り出した一枚の写真を見せられたエリックは無言で受け取り、視線を落とした。写っていたのは、彼女が「見合い相手」と呼ぶ老人だ。
眉がわずかに寄る。写真に映る老人は70歳だと聞かされていたが、それ以上に高齢に見えた。白髪はすっかり薄くなり、皺の刻まれた顔には深い疲労の色が漂っている。
「優しそうな人でしょう。」
彼女の口から放たれるその言葉は、エリックの胸に鋭い棘のように突き刺さった。優しそう――それが何だ?自分の胸の中で、激しい疑問と怒りが渦巻き始める、そんな感覚を覚えた彼はやりきれない気持ちになった。
その日、アパートを尋ねてきたのは制服姿の少女、大きなスポーツバッグを背負っている部活帰りのようだ、美佐緒お姉さんとアパートを尋ねてきたのは親戚の女の子だ。
「今度、県大会似でることが決まったの」
少女の元気な声は部屋にいるエリックにも時折、聞こえてくるほど大きい、二人して笑っているようだ。
その日、エリックは薄暗いアパートの自室で静かな読書をしていた。外からは学校帰りらしい子供たちの笑い声が聞こえ、穏やかな夕暮れの雰囲気が広がっていた。そんな中、ふと耳にしたのは隣室からの談笑の声だった。
「見合いなんてやめて!」
突然、少女の鋭い叫び声が響いた。その一言にエリックは思わず本を閉じ、立ち上がる。
見合い――その言葉が沈んでいた感情がざわめき始めた。
いけない。立ち入るべきではない。
頭では理解していた。しかし、彼の足は無意識のうちにドアを開け、廊下へ向かう、隣室のドアの前で立ち止まった。壁越しに、少女と美佐緒の会話が聞こえてくる。盗み聞きは卑怯だとわかっていながら、我慢できなかった。
「本当にこの見合いをする気なの?あの男、ひどい人だよ!」
少女の声は切迫していた。怒りと苛立ちが混じり合い、言葉を強調するように震えている。
「あの人、離婚してる。理由は何だと思う?」
少女の声が低くなり、まるで告発するような緊張感を帯びていた。
「愛人が何人もいたから。正妻と喧嘩して、裁判沙汰にもなってる。そんな人と結婚なんてありえない!」
壁越しに聞こえる会話は信じがたい内容だ。高齢の男というだけでも違和感があったのに、愛人問題で離婚した人物だというのか?そんな相手と進んで見合いをする、彼女の心境が理解できないと思った。
少女の声は続く。
「うちのお母さんが見合いを勧めてきたのもおかしいと思って調べたんだよ。そしたら…」
一瞬の間があった。その沈黙は、廊下に立つエリックの心臓をさらに早くさせた。
「叔母さん…あの男から多額の援助を受けてたの。金銭的に依存してるのよ。」
その一言が、エリックの胸に稲妻のような怒りを走らせた。援助?見合いが金銭絡みで仕組まれた?それは最初から利用されているに等しい。彼女が望まない状況に追い込まれ、自由を奪われている――その現実が、エリックの中の怒りを極限まで高めた。
「こんな見合い、断ったほうがいいよ!」
少女の声は懇願するような響きと怒りが感じられた。
しかし、次に聞こえた美佐緒の声は、エリックをさらに苦しませた。
「叔母さんは亡くなった父がお世話になった人だからね。」
その言葉には、彼女が諦めているような響きがあった。自分の気持ちよりも、亡き父、親族の期待を優先しようとしている。
これ以上盗み聞きを続けるべきではないと分かっていながらも、耳を塞ぐことができない。少女の声はどこか焦りを含んでいて、言葉を次々と繰り出している。
「誰かに恋人のふりをしてもらえばいいんじゃない?」
その言葉がエリックの耳に届いた瞬間、彼の胸の中に奇妙な感情が沸き起こった。それは突拍子もない提案に聞こえたが、少女は続けてその意図を語る。
「結婚を考えている人がいるって言えば、見合いなんて断れるでしょ?無理だって理由になるよ。」
部屋の中で一瞬の沈黙が流れた。彼女はこの提案に現実味を感じていないのだろう。あるいは、心のどこかで最初から「そんなことは不可能だ」と諦めているのかもしれない。
だが、少女はさらに一歩踏み込むように言葉を続けた。
「このアパートに住んでいる人ならいいじゃない?その方が自然だし、親戚の人も信じるかもしれない。」
エリックの心臓が一瞬、音を立てて止まったように感じた。このアパートの住人――、次の瞬間、少女の言葉がそれを明確にした。
「さっき、仮面をつけた男の人を見た。あの人は頼めないの?」
まさか、自分の名前がこんな形で出てくるとは。
「同じアパートに住んでる人なら助けてくれるかもしれないよ。結婚は一生のことだよ、恋人とかじゃなくて、一生の問題なんだよ!」
少女の声には、真剣さが滲み出ていた。重く響くのは恋人ではなく、一生の問題――その言葉の重さは、彼を深く揺さぶった。
エリックは、廊下で足を止めたまま、心の中で激しい葛藤に襲われていた。恋人のふり。それは、確かに現実味のある案だ。自分のような仮面をつけた怪物でも、形式的な「恋人」を演じることくらいならできるだろう。彼女を守るための口実としては、理にかなっている。
だが、彼の心を揺さぶっているのは、「一生の問題…」という言葉だった。
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